... (several lines of customized programming code appear here)

ベイエリアの歴史(18) – カリフォルニアにとっての日本との戦争

日系人強制収容 日本との戦争が始まると、カリフォルニアでは日系米国人の強制収容という事態が起こりました。1941年12月に真珠湾攻撃があり、翌年3月には最初の収容所がオープンしたので、なんとも手際がよいのに驚きますが、それには伏線があります。

日本人のアメリカへの移住は、20世紀にはいってから人種差別の激化とともに徐々にいろいろな制限が増え、1924年には一部の例外を除き、日本人のアメリカへの移住は禁止されます。この年の移住制限は、日本人だけでなく、東欧や中国なども対象であり、「大恐慌」前で表面上は景気がまだ良い時期だったはずですが、水面下では「職の奪い合い」が始まっていたのかもしれません。

1930年代にはいると、日本の中国・東南アジアへの進出が始まり、欧州でも戦争の気配が強まって、1936年にルーズヴェルト大統領は、いざというとにきドイツ系・イタリア系・日系という「敵性国民」を収容所に入れられるよう、リストアップを開始しました。そして本当に開戦となり、1942年2月に「大統領令9066号」に署名して、すみやかに収容が始まりました。

開戦直後はそういうわけで、カリフォルニアの日系人だけでなく、東部のドイツ・イタリア系も収容されたのですが、こちらは危険がないと見なされ短期間で解放されます。また、ハワイには15万人ぐらいの日系人がいましたが、これはハワイの全人口の1/3にあたり、そんなに収容したら経済が止まってしまう上に、それだけの規模の収容所を作って運営することが財政的にも不可能だったため、1,200~1,800人程度の収容で済んでしまいました。しかし、カリフォルニアの日系人は中途半端に少数派であったため、収容の憂き目に会います。当時、アメリカ本土には127,000人の日系人がおり、そのうち112,000人が西海岸(大半がカリフォルニア)に住んでいました。収容された人数は11~12万人だったとされているので、つまり本土の日系人はほとんど根こそぎ収容所に入れられてしまったということになります。

収容といっても、正確には「海岸線から160kmぐらいまでの『除外区域』からの退去を命じる」というのが法律の文言でした。多くの日系人は海岸沿いに住んでおり、一部は自発的に除外区域から引っ越したのですが、同時に資産凍結も行われたために、引っ越す費用もなく動けずにいたら、行き先を用意して連れてってやると強制された、という恰好です。このため、正式名称は「戦時移住局センター」(Wartime Relocation Authority Centers)であり、カリフォルニア内陸部、アリゾナ、コロラド、ユタ、ワイオミング、アーカンソーに10ヶ所設置され、いずれも人里離れた砂漠や荒野にありました。日系人は、身の回りの荷物だけを持って連行され、家も、農園や商店などの事業資産も、すべて失ってしまいました。

平和ボケ・カリフォルニア人のパニック

ドイツ系やイタリア系はお咎め無しで、日系人だけが大規模に収容されたのは、「アジア人種を差別していたから」だと思っていましたが、こうしてカリフォルニアの歴史を見てくると、どうもそれだけではないような気がします。「アメリカ連邦政府」の意図に加え、「カリフォルニアの特殊事情」も加わっているのです。

まず、アメリカが自らの動機で戦っていた相手は、日本だけでした。ドイツとイタリアは、欧州の同盟国が交戦していたために参戦しましたが、アメリカは当初欧州への介入にはあまり積極的ではありませんでした。

それから、カリフォルニアでは、強力な競争相手である日系農家を潰したい白人農家とか、どさくさにまぎれて日系人の土地を安く買い叩いて儲けたい土地投機屋とか、日系人を叩くと得をする人達が多くいました。「土地投機」の伝統がここでも発揮されます。

そしてもう一つは、日本からの視点では想像もしていなかった、「カリフォルニア人は、本気で日本軍がカリフォルニアまで攻めてくると思って恐怖におののいていた」という点です。

日本の敗戦話ばかり聞いて育った私からすると、ボロボロの日本軍がはるか遠くの金満アメリカ本土を攻撃するなど、「風船爆弾」並のありえない話に思えるのですが、開戦当初は日本軍は破竹の勢いでアジアと太平洋で勝ち続け、実際にアメリカの太平洋岸には日本の潜水艦が出没して、石油設備や商用船を攻撃していました。それを言ったら、東海岸でもドイツのUボートが出没していましたが、第一次世界大戦でも戦って多少は手の内を知っているドイツと比べ、よくわからない日本は突如やってきて、これまで一度も外国に自分の領土を侵略されたことのない自分たちをホントに爆撃しやがったのです。それに加え、太平洋戦争は「石油資源をめぐる戦い」であったことを考え併せると、アメリカ国内での石油生産の主力であったカリフォルニアに「日本がアブラを取りに来る」と考える向きもあったかもしれません。

アメリカ全体からみると、カリフォルニアは国土に組み入れられてからまだ100年もたっておらず、本格的な防衛体制もない手薄な場所でした。独立戦争も南北戦争も無関係で、外国との本格的な戦争ももちろんまったく経験がない、能天気な土地でした。

そんな平和ボケのカリフォルニア人がパニックに陥り、ずっと続いてきた差別の火に油を注いだ、と考えると納得がいきます。北のカナダ国境から南のメキシコ国境まで、海岸沿いを縦にスライスするような「除外区域」の境界線を見ると、住民は本気で「海からの攻撃」におののいていたということかなぁ、という想像が浮かびます。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 山川世界史総合図録、山川日本史総合図録